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2013年7月

2013年7月31日 (水)

『ルー・ブルの旅』21

トランシルヴァニアの要塞教会群  (世界遺産)

12世紀、トランシルヴァニア地方にドイツのライン河やモーゼル川の近辺に住んでいた人びとが、商業を興す目的で入って来た結果、この地方にドイツ文化が伝わり、ドイツ系ルーマニア人によって多くの教会が建てられた。   
しかし、中世のこの時代は、トランシルヴァニア地方に対する周辺遊牧民族たちの攻撃があまりにも多く、激しいため、教会の防衛を強化するたびに、どんどん要塞化していく事になった。   
1394~1690年の3世紀にわたり、トランシルヴァニア地方は、オスマントルコに14回も侵略された。このため、村民を守れる強固な、城壁の厚い要塞を建てる必要に迫られ、仮に外敵に包囲された場合でも、しばらくは暮らせるように、要塞の中に水・食糧などの生活物資を備蓄していた。   
1600年頃、このような要塞教会は600ヶ所もあったといわれ、現在ではその半分しか残っていない。   
これら要塞教会の建築様式はバロック調だが、その中は質素で、現在も昔と同じように教会の鐘が鳴り、村の人々はその教会に集う。これらの要塞教会のうち7カ所が1993年、世界遺産に登録された。

シギショアラから西に約30㎞離れた「ビエルダン要塞教会」を観光した。町全体が望める見張り塔があり、三重の壁に囲まれこの地域の中で最も堅固に作られている。 

鳥瞰図

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通りから眺めた教会 こんな馬車が通ㇼを走り 馬車には美人が乗っていた 

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上:教誨の内部 下:見張り塔と 教会から見下ろした城壁や昔ながらの町並み 

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教会内部の扉で、12個の閂が一斉に動き、19世紀に開かれたパリ博覧会で金賞を受賞した扉という 

さて、ルーマニアと問えばドラキュラ・チャウシェスク・コマネチなどの答えが多いと思う。「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったワラキア公、ヴラッド・ツェペシュは1431年、シギショアラで生まれ、その生家がレストランとなっていて夕食を食べる。 

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上:「ドラキュラの家」とその看板 下:料理 前菜=ドラキュラミンチ(ナス・トマトのペースと) メイン=心臓(ピーマンの肉詰め) デザート=舌(ベリーソースのクレープ) 

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2013年7月30日 (火)

『ルー・ブルの旅』20

旅行6日目

 

この日はマラムレシュ地方のバイアマーレから、トランシルヴァニア地方のシギショアラまで、ほぼ南南東に向かい長いバス移動となり、更にシギショアラからピエタンまでを往復したので、走行距離は 400kmを超えたと思う。バスの座席は丁度「前方部分」に当たっていたので、得をしたような気がした。(地図参照)   おかげで、こうして地図を作り表示するのも大分慣れた。

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シギショアラはトランシルヴァニア地方の中心、いわばへそに当たるところにある。1191年、ハンガリーのクラウス王の命でザクセン人が入植し、15~16世紀の絶頂期には15のギルド(職人組合)を持つ城塞都市となった。町の歴史地区は世界遺産にも登録され、14世紀に建設された「時計塔」は、町のシンボルとなっている。

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町のシンボル「時計塔」

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上:歴史地区に入る門  下:スナップ  

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下は夜のとばりがおり始めた歴史地区

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以下はバイアマーレの様子と シギショアラまでのスナップ

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上:早朝、バイアマーレのホテルの窓から  下:ホテルの部屋と夕食(メインデッシュ)・朝食(バイキング) およびホテルの廊下に飾られていた写真 多分この地方の冬景色だと思う

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以下4枚の写真は、途中の町クルジナポカでのスナップ(3枚)とトルグムレシ(1枚)

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2013年7月29日 (月)

運命の糸

今朝の新聞に、山口県周南市で起きた連続放火・殺人事件の保見容疑者が飼っていた愛犬が、保見容疑者が身柄を拘束されたとほぼ同じ時刻に、心臓発作のため突然死したという記事があった。

この犬はゴールデンレトリバーのオスで、7~8年前、子犬だったときに捨てられていたのを市内の女性が保護し、保見容疑者が引き取って「オリーブ」という名前を付け、かわいがっていたものだが、事件発生後は市内の動物愛護団体などが保護していた。犬の7~8歳といえば壮年期だろう。

犬が人にかみついても記事にはならないが、人が犬にかみつけば記事になるそうだ。飼い主がどんな人物でも、犬が死んだだけではニュースにはならない。保見容疑者の拘束と、オリーブの死亡時間の一致が、「運命の糸」のようなものを感じさせ、この記事になったのだろう。

2013年7月28日 (日)

『ルー・ブルの旅』19

陽気な墓 

ルーマニアの北端にあるマラムレシュ地方の中で、更にその北端にプサンツァ村がある。マラムレシュ地方に点在する世界遺産、木造教会と肩を並べて観光客を集めているのが、プサンツァ村にある『陽気な墓』である。 

この墓は1908年にこの村に生まれた大工さんのスタン・イオン・パトラッシュさんが、1935年に、「愛する者を失った人の悲しみが癒えることを願って、墓標を明るいものにしよう」と、故人の生前の職業や生活を、ユーモラスに墓標(木製)に彫り、鮮やかに彩色して建てたのが始まりとされる。墓標を見れば、故人の人生や生活、人柄を偲ぶことができ、「墓マイラー」には格好の場所となっている。当日は多くの観光客がこの墓地を訪れていた。パトラッシュさんは地下で、墓がこのようになったことをどんな思いで見ているだろうか? 

パトラッシュさんは1977年に死去し、この墓に埋葬されていると聞いたけれども、その墓標を確認することはできなかった。パトラッシュさんが死去した後も、このような墓標は後継者によって作り続けられているそうだ。 

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上の3枚はさまざまな墓標 

下は墓の説明書を開いたもので、墓標に描かれた絵と現地語の説明文、それを訳した日本語のページで、日本語では   

『金持ちになりたいという人よ 

毎日朝早く起きて   

子牛を飼育したら一番いい   

私はそういう風にしたわ』 と書いてある。 

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観光を終えバスに戻ろうとしたとき、賑やかな行列が近付いてきた。葬儀の行列であった。 

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2013年7月27日 (土)

『ルー・ブルの旅』18

マラムレシュの木造教会

 

5日目の観光はもう一つの世界遺産「マラムレシュの木造教会」。ルーマニアの北の端、ウクライナと国境を接するところにマラムレシュ地方がある。前日観光したブコヴィナ地方からは、標高1400mのプリスロップ峠を通ってカルパチア山脈を越えることになる。

 

この地方にはユニークな木造の教会があちこちに存在し、1999年以降順次世界遺産に登録された。建物を支える基礎の石もなく、全て木造で、屋根はとんがり帽子の形をしていて非常に高く天を突くように見える。内部は質素で、布地に聖書のシーンや当時の村びとの日常生活などが描かれた絵が壁に貼られている。

 

時折雨の降る中でボグダンヴォーダ教会・ブデシュティ教会(世界遺産)・スルデシュティ教会(世界遺産)の3か所を観光した。

 

1.ボグダンヴォーダ木造教会

 

18世紀に建てられたギリシャ・カトリックの伝統的な木造教会の一つ。外観と特徴のある屋根や見事な木組みの壁。

 

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2.ブデシュティ木造教会(世界遺産)   
1643年に完成したこの教会には「聖ニコラエ」の名前がついている。ほかの教会よりもやや大きく、長さ18m、幅8mの堂々たる建物で、教会内部と外観の木彫りの装飾がとりわけ美しい。聳え立つ尖塔の下部に大きな鐘があって毎週日曜日、鐘の音が村中に響き渡る。

 

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3.スルデシュティ木造教会(世界遺産)

 

ヨーロッパの木の教会の中で、最も高い標高にり、1724年に完成した。「大天使」の名前がついていて建物の高さは54m。構造を支える棟木には太い樫の丸太が使われている。二重式屋根が面白く、尖塔の下部の小さな4つの塔がユニーク。

 

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その他の写真

 

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上の2枚はカルパチア山脈を越えるプリスロップ峠の近郊 峠ではトイレ休憩をとったが、地元でとれたハチミツやジャムを売る露店があった 。 そして大きな羊の群れが草を食べていた

 

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ボグダンヴォーダ教会の前の通り この日は丁度日曜日で、ミサが終わり三々五々帰宅、あるいは立ち止まってだべっている村びとたち  ルーマニアでも立話は女性の特権らしい

 

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スルデシュティ木造教会の直ぐ近くにある農家 ブタ・犬・鶏などが飼われている

2013年7月25日 (木)

『ルー・ブルの旅』17

その他の修道院

 

午後はアルボーレ修道院・フモール修道院・ヴォロネッツ修道院を観光する。環境や歴史的背景など多少の違いはあるものの、内・外壁に描かれた壁画に大きな違いはない。

 

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アルボーレ修道院の外で壁画の説明を聞く

 

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ヴォロネッツ修道院の「最後の審判」図(上) とほとんど消えてしまった北側の壁画(下)

 

途中の町のレストランで昼食となった。夕方から結婚式があるとのこと、飾りつけの最中で、準備が進んでいた。きれいな飾りつけだったので写真に収める。どんなカップルがここで祝福を受けるのか想像するのも楽しい。

 

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近郊の風景(上)  アルボーレ修道院近くの道端で談笑していたおばさんたち(中)  アルボーレ修道院の鐘楼 普段は鐘を鳴らさないというが、当日は葬儀があるので小父さんが鐘を鳴らしていた

 

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2013年7月24日 (水)

『ルー・ブルの旅』16

モルドヴァの修道院群(世界遺産)

ルーマニアの北部、ウクライナと国境を接するところにモルドヴァ、ブコヴィナと呼ばれる地域がある。オスマン帝国が最盛期にあった16世紀の初頭、ここモルドヴァ公国はオスマン帝国から自治を許され、シュテファン大公以下歴代名君が輩出し黄金期を迎えていた。そして、ルーマニア中世文化の中心地として、この地域に多くの修道院が建てられた。それらの修道院の内壁や外壁には、聖人の肖像画や聖書の1場面を表わすフレスコ画が描かれた。特に外壁に描かれたフレスコ画はこの地方独特のもので、非常に珍しいとされ、現在も鮮明に残っている。  これらの修道院のうち8カ所が、1993年世界遺産に登録され、旅行4日目に丸1日をかけて下記の5カ所を観光した。観光の拠点となる町はスチャヴァである。(字が小さく読みにくい) 

何れの修道院の外壁フレスコ画も、聖母子を中心とした聖人や聖書の場面をモチーフにしていて、当時聖書を読むことができなかった農民たちに、わかりやすく布教するため描かれたものとされる。一般的に建物の北側の壁は風雨によって色あせているものが多い。

    

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モルドヴィツァ修道院

 

修道院のあるモルドヴィツァ村は、標高1109mのチュムルナ峠を越えて国道17号線に通じている。伝統的な木造の農家が並び、それらの家々には屋根付きの車井戸が見える。

修道院は四方を高さ6m、厚さ1.2mの城壁で囲まれ、数本の見張り塔が要所に配置されている。もともと1402年に、アレキサンダー公の命によって小さな教会が建造されたものの、16世紀初頭、大雨によって起きた地すべりで建物が崩壊してしまった。その場所に領主ペトゥル・ラレシュが1532年に再建したもので、完成には5年を費やした。

内壁の絵画のほとんどは伝統的な内容と手法によるもので、「キリスト磔刑像」「最後の晩餐」「聖母の祈り」などがあり、色鮮やかで表情が人間的に描かれている。

外壁のフレスコ画では、南側は歴史的な「コンスタンチノーブルの包囲」などの場面で、626年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルが、ペルシア人に包囲されたものの守りぬかれたという、当時から800年も前にあった大勝利の場面である。そして、負けているのはペルシア人ではなくトルコ人になっている。外壁には一般の信徒たちに強く働きかける絵が並ぶ。「諸聖人の祈り」、いつまでも炎を出している柴の場面として知られる「モーセの燃える柴」、聖母マリアの夫であるヨセフはダヴィデ王の父エッサイの家系に属するという意味を表わし、したがってイエス・キリストは「エッサイの樹」に連なることを表わした「エッサイの木」、ロシアの有名な司教の詩をもとにしているといわれる中世キリスト教の信仰の場面である「聖母への賛美歌」、どの教会堂の外壁にも必ず出てくるテーマ「最後の審判」の場面では、予言者ムハンマドも異教徒の人物として登場し、魔王によって地獄に導かれる高官の暗示的な図像が描かれている。その他に、地元の伝説に基づいた「天国の関所」などもある。

下の写真は入り口の門と修道院を囲む城壁  修道院近くの民家

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スチェヴィツァ修道院

 スチェヴィツァ修道院は1582-84の間に建造されており、教会堂を中心に、各辺約100m四角形に配置されている。修道院のほかの建物は高さ6m、厚さ3mの城壁に沿うように立てられており、その4隅には見張塔がある。
 
 修道院は1581年に、ラダウツィ司教のゲオルゲ・モヴィーラの命で着工された。ただし、もともと宗教的建設物のはずであった修道院がこれまで要塞の形をするようになったのは、司教の兄、当時のイエレミア・モヴィーラ公の命令によるようである。 教会堂の壁の内外を飾る壁画は159596年に製作されたものと見られている。モルドヴァの他の教会堂と比べると異例なほど外壁の絵画の保存状態が良好である。そして、スチェヴィツァ修道院では何よりも、壁画の多さが光る。外壁のうち西面には壁画がないものの、それでも図像が数千点あってモルドヴァ地方のどこよりも多い。
 
 壁画の特徴は、ストーリー性が強調されていることと、16世紀モルドヴァ地方の日常生活を題材にした壁画が多いことなど。
 
 最も著名な壁画が「貞操のはしご」である。現世で徳を積んだ者が天使に導かれて天国へ上り、罪を犯した者が満足げに微笑む悪魔の手に入るという様子が画かれている。「最後の審判」という場面を画く壁画も同じぐらい有名であるが、残念ながら画家が製作中に足場から転落死したため未完成である。この「最後の審判」の各場面には、ルーマニア人にとって長年の敵であったトルコ人や、異教徒としてのユダヤ人が描かれている。「天国への梯子」の場面でも、悪魔などの全てがトルコ人の服装をしているが、それもオスマン帝国の脅迫に対して、教徒を励ますための内容と考えることができる。
 
 張り出し屋根の外側には双頭の獣と火の川を描いたヨハネ黙示録の様子が綿密に画かれている。南側壁面にはエッサイの木と、聖母を題目にしたそれぞれの場面が描かれている。
 
 この修道院は尼僧院として使われており、社会主義時代にも修道女が暮らせた、例外的な場所である。修道院が観光スポットとして有名になった今でも、修道女が質素な生活を送っている。

P5253737_2修道院と庭の通路

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北面の外壁いっぱいに描かれた「天国への梯子」。天国にいたる32段の梯子を境に、右が天国左が地獄で、悪魔の誘惑と戦いながら梯子を上る修道士が描かれている。

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P52537392人の修道女

2013年7月23日 (火)

ハス

今の蓮花寺池のハスの様子を、ひとの年齢に例えるならば、「更年期を過ぎたころ」に当たるだろうか。今朝、青空に誘われて撮影に出かけた。 ハスの花もさることながら、ウオーキングを楽しむ人は、私がいつも歩いている夕方よりもはるかに多かった。大きな望遠レンズを構え、撮影しているひとも。

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2013年7月22日 (月)

昨今

都合でいつもより遅れてウオーキングに出かけた。丸く・赤く・大きな月が昇っていた。丸くはあっても少し歪んでいるように見えたから、十五夜は明日だろう。

今日はウナギにとって最も忌まわしい日だろう。ウナギの漁獲量が大幅に減少し、値上がりも激しい。幸か不幸か私は20年ほど前にうな重を食べた折、ウナギの骨を喉に刺し大変な目にあった。それ以来ウナギを食べる意欲は全くなくなった。「土用の丑」にはせいぜいビーフでも食べるようにしたい。

参院選は自公の圧勝に終わった。衆参のねじれがなくなり停滞した政治はスムースに進むようになるだろう。しかし、憲法96条の安易な改定を許してはならないと思う。

6月下旬に実施した健康診断の結果が届いた。数年前から前立腺肥大と診断されていたが、加えて最近は夜中にトイレに起きる回数も多くなっていた。今回、更に血液検査の数値が悪くなり、精密検査をするよう指摘があった。次々に難しい問題が起きてくる。

2013年7月20日 (土)

だまされやすい?

昨日の夕刊に、沼津市に住む女性が太陽光の投資話をもとに、5800万円をだまし取られたとの記事があった。

さて、朝日新聞は毎週読者アンケートを行って、土曜日の別刷りで結果を記事にしている。今回の質問は「だまされやすいですか?」というもの。その結果は

  • はい 5%
  • どちらかといえばはい 32%
  • どちらかといえばいいえ 38%
  • いいえ 25%

はい・どちらかといえばはいと答えた人があげたその理由は

  • 信じやすい
  • お人よし
  • はっきり断れない
  • 早とちり
  • 優柔不断 と続く

自身の過去を振り返ってみると、「はい」と答えざるを得ない。何事も信じやすいし、お人よしだし、はっきり断れないし、よく早とちりをするし、優柔不断であることは間違いないのだから。注意しなければ。

2013年7月19日 (金)

『ルー・ブルの旅』15

5月24日 (3日目) 

3日目はブラショフ市内の観光後、トランシルヴァニア地方からブコヴィナ地方へ、カルパチア山脈を迂回しながら300kmを超すバスの旅となった。 

連日長い距離を移動する関係で、バスの座席を確保するルールとして、以下のルールが決められた。 “参加者全員を7人ずつ、A・B・Cの3グループに分け、バスの座席も前・中・後に3分割する。第1日目はAグループが前、Bグループが中、Cグループが後の座席に座る。第2日目はBグループが前、Cグループが中、Aグループが後ろに替わる。そしてこのサイクルを繰り返す。各グループは、7人が前後左右の位置に公平に座れるようお互いに配慮する。”というもの。 

実際自分で座席を選ぶ場合、窓から差し込む強い陽光や午後の西日をできるだけ避けるため、バスの進む方向を予め予測して、右側または左側の何れかを選ぶようにした。 

さて、今回の旅行では、教会や僧院・修道院、古い宮殿や要塞など文化財の観光が主体で、ドナウデルタなど自然景観の観光は、当初からカットされていた。勿論連日バスの窓外に展開する風景は、畑・牧草地や家畜の群れ・緑の林などで、自然に触れることはできたけれど、この日のルートで見ることができた「赤い湖」と「ビカズ渓谷」は、数少ない自然景観の観光であったのだけれど? 

この日のホテルは「シャワーのみ」ということであったので覚悟はしていたが、広葉樹林の中に伸びる未舗装の道をしばらく走った山の中。どうしてこんなところにホテルがあるのだろうと不思議に思った。夕食にグラスワイン(赤)を注文、代金は 10レイ。

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林の中に現れたホテル  夜テラスに出ると丁度満月であった 

赤い湖 

湖周辺の土質は鉄分が多く、雨の後は湖が赤く見えることから「赤い湖」と呼ばれるようになったというが、当日は全く普通の湖でいささかがっかり。

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ビガズ渓谷 

ビカズ川の浸食によってできた渓谷で、長さ約8km、崖の高さは平均200m。谷底の部分を道路が走り、崖を見上げながらの観光となる。そして民芸品を主とした土産物店が並ぶ。

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2013年7月18日 (木)

『ルー・ブルの旅』14

ブラショフ

 

旅の2日目、23日のホテルはシナイアから更に北へ約60kmほど走ったブラショフの市内。

 

ここトランシルヴァニア地方には、13世紀ごろから神聖ローマ帝国のもとにあった各地に住むドイツ人(サクソン人)が多数移住し、ブラショフ・シギショアラなどの城塞を築いていった。従って今でもこの地方にはプロテスタント系の教会が多い。ブラショフは12世紀に移住してきたドイツ人によって建設された町で、15世紀末には三重の城壁が築かれ、ルーマニア人は特別の許可がない限りスケイ門を通って城塞の中に入ることは許されなかった。旧市街にはドイツ風の街並みが残っている。人口約40万人。

 

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早朝 ホテルの近くを散策 通勤時にはまだ早い

 

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バス停に泊まったトロリーバス 乗客はまばら

 

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今も残るドイツ風の街並み スケイ門から入り黒の教会に向かう途中

 

聖ニコラエ協会

 

24日、最初に訪れたのがブラショフ市内スケイ地区に建つルーマニア正教の聖ニコラエ協会。ドイツからの移民がブラショフを建設した当時、先住ルーマニア人はこのスケイ地区に強制移住させられた。そこに14世紀に小さな木造の教会が建立され、後に増改築が繰り返されて現在の形になった。教会の近くに建つ学校博物館は、1760年に建造されたルーマニア語による国内最初の学校。

 

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教会は1番奥 尖塔をもっている

 

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教会の近くにある一般住民のお墓 お葬式の様子や埋葬の仕方など現地の様子も聞くことができた

 

黒の教会

 

町の中心に建ち、高さ約65mの後期ゴシック様式の教会。14世紀後半から15世紀初頭まで、約80年かけて建立された。当初はカソリックの教会であったが現在はプロテスタントの教会となっている。1689年、ハプスブルク軍の攻撃に遭い、外壁が黒焦げになったことから「黒の教会」と呼ばれるようになった。1839年に造られた4000本のパイプを持つパイプオルガンや、トルコ アナトリア産の絨毯が有名。

 

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2013年7月17日 (水)

『ルー・ブルの旅』13

シナイア

ブカレスト市内の地図を見ても何処をどう走ったのか見当もつかないけれども、凱旋門を横目に次の観光地シナイアに向かった。

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観光案内書によると、この凱旋門は国際空港から市の中心に向かうと通りに面し、第1次世界大戦の勝利を記念して、1919年に建てられたものだそうだ。

11時にブカレストを出発し、ほぼ北に向かって伸びる国道1号線を約100km、14時30分にシナイアに到着する。(途中の町で昼食)  シナイアはカルパチア山脈の中で奇岩怪石で知られるブチェジ山の中腹、標高800mにある景勝地で、観光の名所となっている。17世紀にシナイア僧院が建造され、それが町の名の由来ともなっている。18世紀には王侯貴族の別荘地として繁栄した。ここではペレシュ城とシナイア僧院を観光し、奇岩怪石を見るチャンスはなかった。

ペレシュ城

シナイアに着くと怪しげな黒い雲に覆われていて、ペレシュ城に入った途端雷鳴が轟きものすごい雷雨となった。雷は北関東の専売品ぐらいに思っていたけれども、ルーマニアの雷も相当なものである。おへそを狙っているかどうかは解からない。ペレシュ城は、1875年から8年の歳月をかけて、カルロ1世がルーマニア王室の夏の離宮として建てた宮殿である。ドイツ・ルネッサンス様式の宮殿は、約160の部屋があり、絵画・彫刻・陶磁器・金銀の宝飾品・中世の武器などが飾られている。彫刻・噴水が置かれた庭からはシナイア渓谷が一望できるそうだが、雷の急襲に遭い、そのような景色を見る余裕もなく次のシナイア僧院に駆け込んだ。

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丁度雨が上がり撮影した外観と庭の彫刻(噴水)

シナイア僧院

17世紀にワラキア公カンタクジノがこの地を訪れたのを記念して建立された僧院。教会入口の天井や壁に描かれたフレスコ画が有名。 写真 上が天井、下が壁に描かれたフレスコ画

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ペレシュ城から僧院まで(600~700m)は雷鳴を身近に聞きながらも降られずに済んだが、僧院を出ると再びどしゃ降り。少し離れた駐車場へたどり着くまでに、全員ぬれねずみとなってしまった。お祈りが足りなかったようだ。

















2013年7月16日 (火)

『ルー・ブルの旅』12

ブカレスト市内「国民の館」

首都ブカレストには見所も多い筈だが、時間の関係で革命広場とチャウシェスクの遺産、夫妻の野望の象徴といわれる「国民の館」を観光し、次の観光地へ向かった。

世界中の官庁や宮殿などの建物の中で、第1位の規模をもつアメリカ国防総省(ペンタゴン)に次ぐ第2の規模を誇り、日本円で約1500億円を投じてチャウシェスクが作らせた宮殿が、この「国民の館」。部屋数は3107にのぼり、内部は天井・壁・窓枠に至るまで純金の装飾が施され、宮殿を支える大柱は、白・赤・黒・ピンク・ベージュの色をした大理石で、ルーマニア中から集められたという、贅の限りを尽くした宮殿である。

現在の正式名称は「議事堂宮殿」。議事堂として、また、政党のオフィスや国際会議・コンサートなどに使われている。延べ床面積:2.55平方km、地上10階、地下4階建。1983年6月に着工し、1989年に民主革命が起きた時点では未完成で、チャウシェスクはここで本格的な仕事はしていない。ただ、小柄なエレーナ夫人のために、階段の高さを低く造り直させるなど、細かな指示もしたという。宮殿建物内の写真撮影には30レイの撮影料が必要。

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南側から見た国民の館

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バルコニーから「統一大通り」方面 チャウシェスクもここでの演説を夢見たはず

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バルコニーを飾る大理石の柱

2013年7月15日 (月)

『ルー・ブルの旅』11

5月23日(木)の観光はブカレストから

ルーマニアの首都ブカレストは、人口約195万人、ワラキア地方と呼ばれているドナウ川の北に広がる大平原の南東部に位置している。

1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳が、クリミア半島のヤルタ近郊で開いた「ヤルタ会談」の後で、ソ連はルーマニアの共産化に着手する。ルーマニアはソ連への従属を強いられたものの自主独立を維持し、東西冷戦がエスカレートする中、ルーマニアの自主外交は西側諸国からエールが送られた。

そして1965年、47歳のチャウシェスクが共産党第1書記に就任する。彼は、彼と同じエリートコースを歩んできた若手ライヴァルを全て粛清して、わずか2年半の間に確固たる権力基盤を築き上げた。チャウシェスク体制は彼の個人独裁を最大の特徴とし、権力があらゆる領域に及んで、全ての政策が彼と彼の妻エレーナによって独占されていた。

そのような独占体制も、1989年12月に起きた民主革命で幕を閉じた。この革命の舞台となったのが、今は革命広場と名を変え残っている広場で、ここが今回の旅で最初の観光地となった。広場の周囲には、旧共産党本部の建物や秘密警察本部・大学図書館・アテネ音楽堂・旧王宮(現国理知美術館)があり、中心部にモニュメントが立っている。共産党本部建物のバルコニーでチャウシェスクは演説し、最後は屋上から妻と共にヘリコプターで脱出したとされる。

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革命広場の周囲に残る旧共産党本部建物など

2013年7月14日 (日)

兵越峠

1987年の10月から、第4日曜日に、静岡県と長野県の県境にある兵越峠では、国盗り合戦が繰り広げられる。浜松市(旧水窪町)と飯田市(旧南信濃村)の人たちが、この兵越峠で行う綱引き大会で、優勝したチーム側に境界(県境)を1m移動させることができるという催しである。開始以来2012年までの結果、現在境界は2m遠州側に設定されているという。

兵越峠(ひょう越峠)は標高1165mにあり、武田信玄もこの峠を通ったとされ、国道152号線はこの県境にある青崩峠が未開通のため、現在その迂回路として利用されている。かつて信州の企業に勤務していたころ、1度この兵越峠を通ったことがあるけれども、昨日涼を求めて再訪した。

峠の気温は20℃、予想通りの別天地で、しばらく車を止め体を冷やした。連休で渋滞も予想されたが、峠を通る車両(バイクが多い)は5分に1台ほどと少ない。そして、峠には何も関係ないといったふうで通過して行った。峠を越え、遠山郷から平岡・新野・新城を経由帰宅する。約300kmのドライブ。

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峠に立つ「兵越峠の由来」の看板

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行政上の県境より2m静岡県(遠州)側に立つ 「国境」の立札




2013年7月12日 (金)

『ルー・ブルの旅』10

世界遺産

あれこれと計画を立てるのも旅の楽しみである。計画に当たっては、そこに世界遺産があるかの、その有無や内容が当然重要な要素となる。ルーマニアには7件の世界遺産がある。

1 モルドヴァの修道院群(5つの修道院):モルドヴァ公国が黄金期を迎えた16世紀初頭に、北モルドヴァ、ブコヴィナ地方に建てられた修道院群。森の中に鮮やかなフレスコ画で覆われた修道院が建つ。

2 トランシルヴァニアの要塞教会群:トランシルヴァニア地方の村々にある要塞教会。異民族の侵入に備え、13世紀~16世紀にザクセン人によって建てられた。最も有名なのがシギショアラ近郊にあるビエルタン要塞教会である。

3 シギショアラの歴史地区:トランシルヴァニアの中心にあるシギショアラは、14世紀に造られた時計塔を中心とした要塞都市で、13世紀に入植してきたザクセン人によって建設された。ドラキュラのモデルといわれるワラキア公の生家もある。

4 マラムレシュの木造教会:牧畜生活を営むマラムレシュ地方の村々に、いくつかの木造の教会があり、内8カ所が世界遺産に登録されている。木造建築の高い技術と芸術性がこの地方の特徴となっている。

以上4件を観光し、ドナウデルタ・ホレズ修道院・オラシュチエ山脈のダキア人要塞の3件は、今回の旅行には組み込まれていなかった。

2013年7月11日 (木)

『ルー・ブルの旅』 9

ドライバーとガイド

ルーマニアでもブルガリアでも、1台のバスとその専属のドライバー・現地ガイドが約1週間、各地の観光地を巡りずっと我々を案内してくれた。スタートしてからドナウの国境に至りブルガリアのバスに替わるまで、延べ何キロぐらい走り私たちを案内してくれたのか、聞きそびれてしまった。

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ルーマニアを案内してくれたのが写真のバスで、中央がドライバーのAdiさん、右が現地ガイドのCatiさんである。(撮影場所はビカズ渓谷)

Catiさんの日本語は、お世辞にも上手とは言えないが、ユーモアがあり時々車内を沸かせ、また、最終日にはバスの中で、これまでに廻った観光地の特徴や歴史、あるいはレストランでの食事の内容や食材、その他彼女が説明した内容に関する帰国前テストがあって、正解者には記念品が贈られた。もっとも最終的には全員が記念品をもらい、帰国OKの合格点をもらったけれど。

ブルガリアに入ってバスが替わり、ドライバーはグレゴルさん、ガイドは2人で、観光ガイドで英語を話すミレーナさんとそれを日本語に訳し我々に説明する役のqさんの2段構えである。まことに残念ながらこの2段構えがうまく機能せず、また、qさんの日本語が未熟なため、各観光地での説明は要領を得ず、ツアーの興味を半減させてしまった。説明なしで観光した方が余程気楽と感じたこともあったし、添乗員が説明すればもっとスムースに進んだのではないかと思うこともしばしばであった。

添乗員あるいはガイドの良し悪しが、ツアーの成功・不成功に大きな影響を持つことを痛感した旅行であった。旅行会社は帰国時の飛行機の中で、当旅行に関するアンケートを求める。回答の中で、多くの参加者がガイドに対する不満を訴えたのではなかろうか。

今回の旅行ではほとんどの参加者が下痢を起こした。特にとらはホテルで医者の診察を受け、結果、病院まで行って点滴を受た。従ってグループとは別行動をとったため、ブルガリアの2人のガイドさんには特別お世話になった。有難うございました。

2013年7月10日 (水)

『ルー・ブルの旅』 8

両替

さて、『ルー・ブルの旅』が始まる。成田を5月22日の12時頃に離陸し、オーストリアのウイーンで乗り継ぎ、ブカレストのホテルには現地時間の22時に到着した。毎度のことながら、狭い機内で12時間に及ぶフライトは、拷問に遭っているようなものである。

空港での最初の仕事は、明日からの生活に必要な現地の通貨に両替することである。ルーマニアでは観光地や教会などで写真撮影する場合、撮影料が必要となるケースが多い。従って写真撮影をする方は多めに両替してくださいと、ガイドさんから注意があった。ルーマニアに滞在するのは1週間の予定なので、とりあえず70ユーロを両替したら、現地通貨で280レイが手元に入った。概算すると1レイが30円見当になる。

写真撮影料・グラスワイン(赤白とも)・ビール小瓶など何れも10レイ程度である。結果的に現地通貨が少し残ったので、最終日にホテルの近くのスーパーに行き、雑貨などを買うことになった。ルーマニアのレイはブルガリアでは使えないためである。

29日にルーマニアからブルガリアに国境を越え、国境近くの町で今度はブルガリアの現地通貨レヴァに両替する。ここでは30ユーロが58.44レヴァであった。(1レヴァ約70円)  日本に比べればルーマニアもブルガリアも物価は安い。

写真はルーマニアに到着した当日の夜、空港からホテルに向かうバスの中から見た、ブカレスト市内の夜の交差点  バスの時計が21時40分となっているP5233466

2013年7月 9日 (火)

『ルー・ブルの旅』 8

歴史2

3世紀にローマ帝国が撤退した以降のダキアの歴史は明確ではない。14世紀になって「ワラキア」と「モルドヴァ」という二つの公国が登場してくるが、両国の建国の歴史もはっきりしていない。15世紀にはこれら両国ともオスマン帝国の属国となっている。

ワラキア・モルドヴァが、「ルーマニア」として独立宣言したのは1877年のことで、ヨーロッパ各国の承認を得たのは、1878年のベルリン会議においてである。しかし、当時トランシルヴァニア(地方)は、ハプスブルク帝国の領土であり、ルーマニアには含まれたいなかった。

トランシルヴァニアは、9世紀にハンガリーの支配下に入り、1526年にハンガリーがトルコに敗れたため、トルコの支配となった。そして、1699年にハプスブルク帝国がハンガリーからトルコ軍を一掃すると、ハプスブルク帝国の領土となり、1867年、ハプスブルク・ハンガリー二重帝国の誕生で、再びハンガリーの領土となった。

第1次世界大戦後にハプスブルク帝国が崩壊して、トランシルヴァニアはルーマニア領となったものの、第2次世界大戦が始まると再びハンガリーに併合され、大戦終結後にようやくルーマニアに戻るという、複雑な歴史をたどっている。

第2次世界大戦後同じ社会主義にあって、ハンガリーとルーマニアの関係が嫌悪であったのは、こうしたトランシルヴァニアをめぐる歴史の流れに起因している。

2013年7月 8日 (月)

梅雨明け

関東甲信に続いて、今日、東海地方も例年より約2週間早く梅雨が明けた。冬の寒さに比べ夏の暑さの方がまだ凌ぎやすいと思っていたけれども、今日の暑さには参った。体を動かす気力が全く抜けてしまった感じである。

旅行に出たり雨が降ったりして怠け癖がつき、ここで暑さを理由にウオーキングをさぼれば、取り返しのつかないことになると思い直し、6時過ぎ歩き始めた。今日の気温は、30℃ぐらいだろうと とらと話しながら温度計に近づくと、予想外に低く26度であった。池のハスももう直ぐ満開になる。

2013年7月 7日 (日)

『ルー・ブルの旅』 7

歴史

 

ルーマニアの人口は約2150万人、ヨーロッパで9番目の国である。そして、ルーマニア正教徒が87%を占めている。歴史書によると、紀元前7世紀ごろこの地にダチア人(ダキア人)が住みついた。

 

かつてドナウの全流域を支配したのはローマ人だけだけれども、ローマ皇帝トラヤヌスは、101~102年と、105~106年の2回にわたってダキアを攻め、これを征服し、ローマ帝国の1州として編入した。そしてローマ人が立ち去る271年まで、165年の間、このダキアにはローマ兵が駐屯し多くの入植者が入り込んできて、民族間の混血が進み、文化の混交が行われてダキアはラテン化した。

 

ダキアが短期間(165年間)にローマ化した背景には、ダキアの豊富な地下資源(金・銀・銅・鉄・クローム・岩塩・石炭・石油など)と肥えた土地が、当時のローマ人を引きつけたとみられている。

 

ローマ人がダキアから撤退した後に残された、ラテン化したダキア人がルーマニア人の祖先である。ローマ人が撤退した後ダキアは、ゴート・スラブ・マジャールなど次々に押し寄せる民族の波に洗われたけれども、ダキア・ローマ人に根付いたラテン的特質は失われることなく、ルーマニア民族とルーマニア語が次第に形成され、そして、「スラブの海にあるラテンの島」が守られてきたといえる。

2013年7月 6日 (土)

『ルー・ブルの旅』 6

地勢

 

ヨーロッパ第2の大河「ドナウ」が東に向い、ルーマニア(左岸)とブルガリア(右岸)の国境を果たしながらやがて黒海に注ぐ。その河口にできた大湿原地帯は「ドナウ・デルタ」と呼ばれ、野生生物の宝庫であり世界自然遺産に登録されている。ルーマニアには7個の世界遺産があり、ドナウ・デルタはその内の一つであるけれど、今回は立ち寄るチャンスがなかった。

 

自然の変化や美しさから「バルカンのスイス」と呼ばれるようだが、国土の中央部を『つ』の字型に走るカルパチア山脈の最高峰でも約2550mであり、スイスのような山岳風景を見ることはできなかった。しかし、豊かな農業国としての風景を各地で見ることができたし、おいしい野菜をふんだんに食べることができた。ただ下痢をしてしまったのはいただけない。

 

緯度的には北海道とほぼ同じながら、大陸性気候のため6~8月には気温が30℃以上となり、12~3月の冬は厳しい寒さとなる。現にブカレストに入ったのは6月22日であったが、肌寒く暖房が必要な状態であった。観光シーズンは5~10月といわれる。

 

一般的にルーマニアは3つの地域に分けられる。ウクライナ・モルドヴァ共和国と国境を接する北東部の「モルドヴァ地方」、ドナウ川の北に広がる大平原の「ワラキア地方」、この両地方の間にはほぼ東西に「トランシルヴァニアアルプスが走っている。そして、ハンガリーと国境を接する(マラムレシュ地方)を含む北西部が「トランシルヴァニア地方」である。ここには今なお中世の古い街並みが残っている。

 

以下の写真は何れも車窓からのもの

 

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モルドヴァ地方 親子の牛がのんびり草をはんでいた

 

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モルドヴァからトランシルヴァニアへ カルパチア山脈を越える途中の風景

 

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トランシルヴァニア地方の典型的な風景

 

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ドラキュラのモデルとなった「ブラン城」の近郊

2013年7月 5日 (金)

『ルー・ブルの旅』 5

参加者

『ルー・ブルの旅』に参加したのは21名(他に添乗員1名)であり、夫妻での参加は5組(10名)、個人参加が11名であった。女性の個人参加者が8名と多く、ここにも女性優位の傾向が表れている。

プライバシー保護の観点から、旅行会社から配布される名簿は名前だけで、住所や電話番号は入っていないし、ましてや年齢などは全く解からない。しかし、2週間も一緒に行動すれば個人情報も話題になることもあるし、中には詮索好きな方もおいでになって、情報漏れも生ずる。女性の中でとらが最高齢であったのは間違いないし、ねずみは参加者中の最高齢ではないかと思っていたが、3位であることが解かったりした。そして今回の参加者は、首都圏が中心であることは変わりないが、仙台・宇都宮・千葉・静岡・名古屋・伊丹と広い範囲から参加していたのも特徴的であった。

ルーマニアやブルガリアを旅行先に選ぶ旅行者は、ある程度海外旅行の経験を積んだ人たちだと思う。現に今回の参加者もほとんどが経験豊かな人たちであった。次の旅行計画や予定を尋ねてみると、バラエティに富み、参考になることが多く、興味深く聞くことができた。

ワインなど現地で買った液体物は、スーツケースに入れなければならない。割れないよう工夫が必要だけれども、紙おむつで包むのが1番とのこと。納得する。

2013年7月 4日 (木)

鳥海山

4月に愚息が新庄市に転居した。どんな環境で生活しているのかの視察と観光を兼ねて出かける。忙しい中、休日を利用し鳥海山を案内してくれた。鳥海山は是非1度登ってみたいと思っていた山だけれども、見かけ以上に厳しい山と聞くし、今となっては断念せざるを得ない。「三浦さんは80歳にしてエベレストに登ったではないか、お前も挑戦しろ」という声が聞こえたような気もする。

朝から梅雨空であったけれども、5合目の登山口にある竜ヶ原湿原に着いたとき、丁度雲が切れ山頂を望むことができ感動した。 写真は竜ヶ原湿原から、山開きを迎えた鳥海山  まだ雪が大分残っている。

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当日は、JR陸羽東線「奥の細道湯けむりライン」の瀬見温泉に宿をとった。平安末期、源義経一行が兄頼朝の追ってを逃れ、平泉に向かう途中、身重だった北の方が産気づき、観音堂で亀若丸を生む。弁慶が湯煙の立つ川辺の大きな岩をなぎなたで砕くと、温泉が噴き出したので、亀若丸の産湯に使った。弁慶のなぎなたが「せみ王丸」という名前だったので、この温泉が「瀬見温泉」と呼ばれるようになったという。近辺には、「薬研湯」「奥の院」「亀割子安観音」など、義経伝説にまつわる旧跡がある。


2013年7月 1日 (月)

夏祭り

山形新幹線の終着駅、新庄に降り、改札口を出ると目の前に大きな「山車」が飾ってある。
青森の「ねぶた」、秋田の「かんとう」など、東北地方は夏祭りで賑わう。新庄駅の「山車」も8月23〜25日に行われる夏祭りで街を練り歩くことになる。

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